きものが出来るまで
西陣の帯
手機(てばた)から力織機(りきしょっき)へ
西陣の由来
京都で織物の歴史は古く、平安京が築かれるよりも前の5世紀頃のこと。宮廷の織物を管理していた「織部司」と呼ばれる役所が置かれ、綾・錦など高級な織物作りを奨励した事にともない、発展したといわれています。
1467年に京都を二分して起こった大戦乱『応仁の乱』各地に離散していた織物職人たちも戦乱の後京都に戻り、山名宗全率いる西軍の陣地が置かれていたあたりで、織物作りを再開します。その西軍の陣地跡だから「西陣」というわけです。今も上京区堀川通五辻西入るには、宗全の邸宅跡が残っています。
西陣織りが出来るまで
西陣織の特色の一つは先染の紋織物(染色した糸を使って模様を織り出す織物)という点にあります。従って、織り上がるまでには多数の工程を必要とします。これらの工程はほとんどが分業システムによって専門職の人々の手で行われていますが、大きくは(企画・製紋)(原料準備)(機準備)(製織)(仕上げ)の各ブロックに分けることができます。今回のテーマにした手機と力織機に至るまでの工程だけでも非常に多く段階がありますが、今回は織りの技術のみ絞っての説明をさせて頂きます。
織機の歴史
江戸時代の 高たか 機ばた の作業風景にある 空引きそらびき 機き 。上に乗った小年が 空引きそらびき と言われる経糸に繋がる板を、織り手の指示により引き上げ、 緯たて 糸いと を通して文様を織り上げる織機が主流の時代、まだまだ機械化されてい ない時代が長く続きました。1872年(明治5 年)にフランスのリヨンに職人を派遣して、 ジャガード織機を導入、3年後には国産の ジャカードを誕生させた。その結果、空引機 では出来なかった幾多の織物を産み出し量産を 可能にした。西陣にも一気に近代化の波が訪れ た瞬間でした。
その後、 紋もん 紙がみ をデータ化しフローピーディスク一枚で全ての文様が収まり、膨大な場所を必要とした紋紙が次第に姿を消しコンピューター化して行きます。時代の流れ、機械化の流れと共に 力織機りきしょっき での製品化にも力を入れてゆきます。
現在もっとも主流となる力織機。簡単な柄の帯でも1日一本織れれば良いほうです。
西陣の帯には西陣織工業組合が発行するメガネ型証紙が必ず 貼付されています。この証紙に生産者番号、帯地の種類を表示。生産者の責任を明確にするとともに、西陣のデザインと技が作りあげた西陣製品であることを証明しています。
手織りと力織機の厳密な区別は非常に難しく、上記で説明した物は全て機械を使用しているとも言え、特にジャガード機以降は力織機とも言えますが、現代の力織機でも職人が目を離すことは出来ず、高度な職人技が全てに必要となります。西陣は機械化により、高品質で販売しやすい価格品を大量生産することが可能になったにも関わらず、全てが機械化出来ない、いまだに手織りでしか織れない物があることも事実です。品質の良し悪しではなく機械化出来なかった事も事実としてあると言う事です。
手機の織物
一般的な織機、縦に張り渡した糸、「経糸(たていと)」に、横方向の糸「緯糸(よこいと)」を通すため経糸は横棒2本の間に張られ、その間に 「杼・シャトル」が一気に通ります。その隙間を開けるための「綜絖(そうこう)」、綜絖を固定するシャフト(綜絖枠)を上下させ経糸を開口させる踏み板、経糸を横 幅どおりに配置し通った横糸を打ち込むための、櫛の目が並んだような形態の「筬(おさ、リード)」などが配置されてい高機(たかはた・たかばた)とも言われる織機の他にも、 地機や腰機などもありますが、西陣ではほぼ見る事はなくな ったようです。
手織りの中でもっとも歴史が古く、また非常に手間のかかる織物で、色糸一本一本を櫛をつかってしっかりと織り込んでいきます。そのとき模様の細かいところは指の爪の先を櫛状にして織り込みます。ベテランの職人でも、一日数センチしか織れないと言われています。